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2009.12.06日記
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昨日のブログで故平山郁夫画伯の薬師寺玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」の話を書いた。
実は4年前のブログに、玄奘三蔵のことを書いていたんだけど、読み直してみると、我ながらとてもわかりやすく書いてあり、自分の考え方や行動に大きな影響を与えていたんだということがわかったので、再録することにした。
【玄奘三蔵とは】
あの有名な西遊記の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に大きな影響を受けている。
玄奘三蔵は唐の都長安(現在の西安市)から仏教のメッカ天竺(てんじく→北インド)に、15,000キロを16年かけて往復し、膨大な仏像や仏経典を持ち帰り翻訳し、中国のそして間接的に日本の仏教の普及に貢献した僧侶である。
玄奘は若くすぐれた僧だった。
13歳で得度したときから,綿のような吸収力と海のような探求心をもっていた。
しかし当時,唐には経典が 少なく,学べば学ぶほど矛盾につき あたった。これを解決するには仏教 発祥の地,インドから原典を取ってくるしかない。
玄奘は留学願いを皇帝に出すが危険だと却下。
何度申し出ても却下され業を煮やした玄奘は勝手に出発する道を選ぶ。
数日後,玄奘はひそかに長安の西門を出発した。
時に玄奘27歳(29歳説も)で ある。
この情報はすぐに皇帝に知られた。
手配書が各地に回ったが玄奘は先ざきで仏教信者に助けられた。
そして深夜、迂回して西の国境玉門関を超える。
行く手には荒涼としたタクラマカン砂漠が広がっている。
「天に飛鳥なく地に走獣なし」といわれる砂と風の空白地帯だ。
昼間は熱波、夜は寒気が玄奘を襲った。
何度もまぼろしを見た。
海抜マイナス154mのトルファン盆地で炎熱にやかれ、陽炎ゆれるボグドオラの真っ赤な山はまさに火炎山だった。
高原地帯では高山病にも苦しんだ。
玄奘は多くの国を通過したが、どこの国でも尊敬され、留まってほしいと頼まれた。
言葉は通じなかったはずだが、玄奘は人間どうしなら理解し合えるという信念を持っていたようだ。
また、どんな人にも同じように公平に接する人だった。
玄奘は身長が180センチ以上、整ったマスクと魅力的な声を持ち、出会った人はすぐにひきつけられたという。
『西遊記』は玄奘の旅を,仏教の教えを物語にした説話や講談などにしたのが始まりとされる。
そしてより面白くするために、旅の苦難はさまざまな妖怪になった。
玄奘はタフな男ではなく、かよわい僧として描かれ、その強力なハートは分身して異形の弟子たちとなった。
闘争心は悟空に、弱さや欲望は猪八戒にといったぐあいだ。
玄奘は唐に近づくと皇帝に報告書を送る。
密出国は死罪。しかし返事は帰国を許すものだった。
旅立ちから16年、(17年という説もあり)玄奘は大量の経典(馬22頭分)とともに人びとの大歓迎のなか、都に帰ってきた。
玄奘43歳の男盛りだったという。
【玄奘三蔵の成功】
史実は時として記録の限界から曖昧に伝わるので、後の世の人の受止め方で変わるからなんとも言えないが、玄奘三蔵のこの旅の内容も色々に伝わっている。
ある本によれば、インドに向かい到達して帰国の途に着くまでに10数年かかり、唐の都に帰る道は1年と少しで帰り着いたと言われている。
それまでも幾多の人がこの経典を持ち帰ることに挑戦はしていたと思われるが、なぜこの玄奘三蔵だけがこのような快挙を成し遂げられたのか。
その秘密は、この「10数年と1年と少し」行きと帰りの年数の差にあるのではないか。
玄奘三蔵は上にも書いたように「言葉は通じなくても人間どうしなら理解し合えるという信念を持ち、どんな人にも同じように公平に接する人だった」ようである。
行く先々で留まるよう求められそれに応え、また仏教の真髄を極めようとすぐに経典を持ち帰ることを急がずに、現地の仏教大学のような所に身を置いて、数年間も勉強もしている。
そこには数千人の学生が学んでいたが、卒業できたのは10人足らずで、玄奘がその一人となっていたことも記録されている。
帰りには行きで彼の人間性と姿勢にほれ込んだ国王が物資や部隊を派遣して全面的に支援してくれたり、彼を尊敬した僧侶や人々が多くの応援をくれたことによるという。
このことからボクは、他の人が成しえなかったことを玄奘が成しえた大きなポイントは「決して先を急がなかったこと」「目の前の本質的に大事なことに精力を注いでいたこと」「自分が大切に接したたくさんの人々に助けられたこと」だと感じた。
玄奘は帰国後、持ち帰った膨大な冊数の経典(サンスクリット語)の翻訳にとりかかる。
約20年かけてこの大仕事をやりとげるが、彼の偉大さは苦難の旅にもあるが、この翻訳にもあるといえる。
仏教の経典は三つに大きくわけられ、そのすべてを修めた僧は「○○三蔵」とよばれ尊敬されるとのこと。
しかし、ただ三蔵法師あるいは三蔵とよばれるのは玄奘ただひとりである。
日本人が最も親しんでいるお経、「般若心経」。
実はこの般若心経をインド・サンスクリット語から中国語に訳した人物こそ、他ならぬ玄奘なのである。
経典を訳し終えた時、60の齢を過ぎていた。
玄奘はある時、弟子の一人につぶやいたという
「今や般若経の翻訳も終え、わが生涯もまた尽きた。無常の後は、草のむしろに包んで葬送して欲しい・・・」
満足げに筆を置いた玄奘は、使命を果たし終えた満足感に笑みをこぼしながら、静かに世を去っていた・・・。
その後、般若心経、そして仏教の真髄は日本に渡ることになるのである。
その日その日に汲々としていない、大きな人生がそこにはある。
しかし、彼は成功を急いだわけではない。
「決して先を急がない」
「目の前の本質的に大事なことに精力を注いでいく」
「今、目の前の人を大切にする」
そうした態度の結果が彼に大きな業績を残し、人生を大きくしたということだと思う。
満を持したボクの初の著書だよ。いい感じに仕上がった。
マングローブからヒントを得た生き方・働き方・経営の仕方を提案している。

ATARIMAEプロジェクトを応援しています
実は4年前のブログに、玄奘三蔵のことを書いていたんだけど、読み直してみると、我ながらとてもわかりやすく書いてあり、自分の考え方や行動に大きな影響を与えていたんだということがわかったので、再録することにした。
【玄奘三蔵とは】
あの有名な西遊記の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に大きな影響を受けている。
玄奘三蔵は唐の都長安(現在の西安市)から仏教のメッカ天竺(てんじく→北インド)に、15,000キロを16年かけて往復し、膨大な仏像や仏経典を持ち帰り翻訳し、中国のそして間接的に日本の仏教の普及に貢献した僧侶である。
玄奘は若くすぐれた僧だった。
13歳で得度したときから,綿のような吸収力と海のような探求心をもっていた。
しかし当時,唐には経典が 少なく,学べば学ぶほど矛盾につき あたった。これを解決するには仏教 発祥の地,インドから原典を取ってくるしかない。
玄奘は留学願いを皇帝に出すが危険だと却下。
何度申し出ても却下され業を煮やした玄奘は勝手に出発する道を選ぶ。
数日後,玄奘はひそかに長安の西門を出発した。
時に玄奘27歳(29歳説も)で ある。
この情報はすぐに皇帝に知られた。
手配書が各地に回ったが玄奘は先ざきで仏教信者に助けられた。
そして深夜、迂回して西の国境玉門関を超える。
行く手には荒涼としたタクラマカン砂漠が広がっている。
「天に飛鳥なく地に走獣なし」といわれる砂と風の空白地帯だ。
昼間は熱波、夜は寒気が玄奘を襲った。
何度もまぼろしを見た。
海抜マイナス154mのトルファン盆地で炎熱にやかれ、陽炎ゆれるボグドオラの真っ赤な山はまさに火炎山だった。
高原地帯では高山病にも苦しんだ。
玄奘は多くの国を通過したが、どこの国でも尊敬され、留まってほしいと頼まれた。
言葉は通じなかったはずだが、玄奘は人間どうしなら理解し合えるという信念を持っていたようだ。
また、どんな人にも同じように公平に接する人だった。
玄奘は身長が180センチ以上、整ったマスクと魅力的な声を持ち、出会った人はすぐにひきつけられたという。
『西遊記』は玄奘の旅を,仏教の教えを物語にした説話や講談などにしたのが始まりとされる。
そしてより面白くするために、旅の苦難はさまざまな妖怪になった。
玄奘はタフな男ではなく、かよわい僧として描かれ、その強力なハートは分身して異形の弟子たちとなった。
闘争心は悟空に、弱さや欲望は猪八戒にといったぐあいだ。
玄奘は唐に近づくと皇帝に報告書を送る。
密出国は死罪。しかし返事は帰国を許すものだった。
旅立ちから16年、(17年という説もあり)玄奘は大量の経典(馬22頭分)とともに人びとの大歓迎のなか、都に帰ってきた。
玄奘43歳の男盛りだったという。
【玄奘三蔵の成功】
史実は時として記録の限界から曖昧に伝わるので、後の世の人の受止め方で変わるからなんとも言えないが、玄奘三蔵のこの旅の内容も色々に伝わっている。
ある本によれば、インドに向かい到達して帰国の途に着くまでに10数年かかり、唐の都に帰る道は1年と少しで帰り着いたと言われている。
それまでも幾多の人がこの経典を持ち帰ることに挑戦はしていたと思われるが、なぜこの玄奘三蔵だけがこのような快挙を成し遂げられたのか。
その秘密は、この「10数年と1年と少し」行きと帰りの年数の差にあるのではないか。
玄奘三蔵は上にも書いたように「言葉は通じなくても人間どうしなら理解し合えるという信念を持ち、どんな人にも同じように公平に接する人だった」ようである。
行く先々で留まるよう求められそれに応え、また仏教の真髄を極めようとすぐに経典を持ち帰ることを急がずに、現地の仏教大学のような所に身を置いて、数年間も勉強もしている。
そこには数千人の学生が学んでいたが、卒業できたのは10人足らずで、玄奘がその一人となっていたことも記録されている。
帰りには行きで彼の人間性と姿勢にほれ込んだ国王が物資や部隊を派遣して全面的に支援してくれたり、彼を尊敬した僧侶や人々が多くの応援をくれたことによるという。
このことからボクは、他の人が成しえなかったことを玄奘が成しえた大きなポイントは「決して先を急がなかったこと」「目の前の本質的に大事なことに精力を注いでいたこと」「自分が大切に接したたくさんの人々に助けられたこと」だと感じた。
玄奘は帰国後、持ち帰った膨大な冊数の経典(サンスクリット語)の翻訳にとりかかる。
約20年かけてこの大仕事をやりとげるが、彼の偉大さは苦難の旅にもあるが、この翻訳にもあるといえる。
仏教の経典は三つに大きくわけられ、そのすべてを修めた僧は「○○三蔵」とよばれ尊敬されるとのこと。
しかし、ただ三蔵法師あるいは三蔵とよばれるのは玄奘ただひとりである。
日本人が最も親しんでいるお経、「般若心経」。
実はこの般若心経をインド・サンスクリット語から中国語に訳した人物こそ、他ならぬ玄奘なのである。
経典を訳し終えた時、60の齢を過ぎていた。
玄奘はある時、弟子の一人につぶやいたという
「今や般若経の翻訳も終え、わが生涯もまた尽きた。無常の後は、草のむしろに包んで葬送して欲しい・・・」
満足げに筆を置いた玄奘は、使命を果たし終えた満足感に笑みをこぼしながら、静かに世を去っていた・・・。
その後、般若心経、そして仏教の真髄は日本に渡ることになるのである。
その日その日に汲々としていない、大きな人生がそこにはある。
しかし、彼は成功を急いだわけではない。
「決して先を急がない」
「目の前の本質的に大事なことに精力を注いでいく」
「今、目の前の人を大切にする」
そうした態度の結果が彼に大きな業績を残し、人生を大きくしたということだと思う。
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