株式会社マングローブ
 
語る
株式会社日本アルマック
代表取締役
浦嶋繁樹氏


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鬼才異彩
株式会社日本アルマック 浦嶋繁樹
 
アメリカに行かれるようになっていかがでしたか?

米国のビックバンによって、やはり日本が大きく変化していくことを強く確信しました。 それにともない、自分の専門領域である保険制度の考え方も変わるだろうと。これから迎える日本社会において自分の食い扶持を守る意味でも、時代の先読みをすることは最大のリスクマネジメントでもあったわけです。

少し専門的な話をさせていただきますが、保険制度のルーツは2種類あります。ひとつは共済制度。農業社会をベースとした考え方の助け合い保険で、各自のリスクの種類や程度に関係なく、加入者はみな平等に同じ保険料を払うというもの。従来日本は共済の仕組みがとられていました。

一方で、リスクによって保険料が変動する変動型制度。海運業者が盛んだったヨーロッパで発達してきた考え方で、近海に出かける場合と喜望峰を回ってインドや香港まで出かける場合とでは当然リスクに差が出ますね。遠ければ遠いほどリスクは高まりますから、リスクの高い方は高い保険料を払う。リスクの少ない方は安い保険料を払うという、リスクに応じて異なる保険料を払うという平等が存在するのです。これは自己責任においてリスクを選択する社会ですね。

例えば、イタリア製スポーツカーのフェラーリでも車色によって保険料が違うんですよ。黄色より赤色の方が明らかに高い。なぜかと言うと、赤色の方が人気色で盗まれる確立が圧倒的に高いからなのです。また赤色でも居住地によっても保険料がさらに異なります。リスクを細分化して保険レートが設定され、時代によってリスクも変動しますから保険料も当然変動します。

先ほどお話しましたように、保険制度において共済という仕組みを活用してきた日本が、ビッグバンの影響でリスク変動型の保険レートに変わっていくだろうと。そうなると、企業におけるリスクも変動しますから、リスクが高まれば企業がかける保険料も上がることになり、赤字決算を余儀なくされたり、最悪の場合は経営破綻に追い込まれることにもなる。その事態を避けるためには、リスクの高い企業はリスクを下げることで保険料も下げることができる。仮に1000万円の保険料を支払っている企業が500万円まで下げることができたら、その下がった分だけ他に活用することができます。

ということは、これからはコンサルティングが成り立つ時代なんじゃないかと。下がった金額の半分でもコンサルティングフィーとして活用できるはずだと。自由化や選択肢が増える時代はコンサルティングが盛んになると予想したわけです。



選択肢が増える時代は選択に迷いが生じるわけですから、そこに専門家のアドバイスが必要になると?


その通りです。自由化によって選択肢が10通りにもなるとします。その10通りの中から、どのようなルールで選び、決定していけばいいのでしょうか。選択肢が多くなればなるほど、意思決定に時間がかかるようになります。数ある中から、自社にとって適切なものをより早く選び抜き、正しく決断できるかが経営の根幹に影響を与えていくはずだと思いました。そのリスクを明らかにさせ、イエス・ノーを早く正しく決断するためには、リスクが正確に見えればいいわけです。リスクを念頭に置いてイエス・ノーを早く正しく決断するためのシステム、つまりリスク経営管理システムをつくろうと考えました。

リスクは別の言い方をすればチャンスとも捉えることができます。例えば、企業が海外へ進出するには大きなリスクを伴いますが、進出することによって利益増などのプラス要素にもなりますから。 リスクをきちんとコントロールできれば、経営計画をたてることが可能になり、事業の基盤を固めることもできるからです。



そして、いよいよリスクマネジメントの専門会社設立となるわけですね。


ええ。故郷秋田から仲間2人を引き連れて上京、1989年10月に日本アルマックの前身、株式会社マネー・コンサルティング・カンパニーを立ち上げました。生まれも育ちも秋田で、地元を離れることなく仕事をしていたわけですが、「これはもう秋田にいる場合じゃないな」と。「これから起きる日本大変革の動乱の真っ只中に身をおいていたい」という気持ちで勇んで東京に乗り込んだわけですよ(笑)。

そして、忘れもしない約2ヶ月後の1990年1月4日、株が大暴落しましたよね。自分の読んだとおりになりましたから「これは来たぞ、絶対に日本は変わる!」と。さらに1993年に細川政権が誕生、そして米国に遅れること12年の1994年、日本の産業構造がついに変わりました。日本の就業人口の第1位の製造業をサービス業がついに追い抜いたのです。「もうこれは読んでいたとおりだ!」と心の中で歓喜の声をあげました。ところが、ここからがさらに長い道のりだったのです。

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