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株式会社美術出版社
代表取締役社長
大下健太郎氏
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後編 Page
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経営者略歴
Company Data
鬼才異彩バックナンバー
経営者に学ぶ
(1)『自社の強みを活かしたサービスで
勝負する』
(2)『事業部別の人事制度を導入』
(3)『社員の働く環境を考える』
(4)『一事業に固執するのではなく、
事業の枠を超えた取り組みに
挑戦する』
(5)『これだと思ったことはきちんと
やり続ける』
株式会社美術出版社
所 在 地:東京都千代田区神田神保町2-38 稲岡九段ビル8F
事業内容:書籍・雑誌の制作・出版・販売
携帯モバイルコンテンツ事業
U R L:
http://book.bijutsu.co.jp/
今回の鬼才異彩は、株式会社美術出版社 代表取締役社長 大下健太郎氏のインタビューをお届けいたします。同社は1905年創業の老舗中の老舗出版社。健太郎氏は4代目社長でいらっしゃいます。同社の出版物には、美術関連の学術書から『美術手帖』や『デザインの現場』などの身近な美術系専門誌があり、また一方で、新規参入したモバイルコンテンツ事業も飛躍的に成長している同社。前編では、これまでの美術出版社とモバイル事業についてお話を伺いました。
今年で創業102年を迎えられたと伺っております。御社は『MG-NET+』史上最も歴史ある企業でいらっしゃいますので、本日はどのようなお話が伺えるかと、とても楽しみにしておりました。
ありがとうございます。創業者である大下藤次郎は、私の曽祖父でして、藤次郎の息子、そのまた息子へと代々継がれてきたのがこの美術出版社という会社です。藤次郎はもともと親の家業であった宿や下宿の経営を任されていたようですが、24歳の時に父親が他界したことをきっかけに家業をやめ、予ねてから好きだった水彩画の道に本格的に進むことを決意したようです。当時としては非常に珍しく、日本のみならず欧米やオーストラリアにも渡航し、水彩画をひたすら描き続けるという暮らしを送っていたようです。
同時に水彩画の描き方を人に教えたい、水彩画を日本に普及させたいという思いが強くなり、水彩画の研究会である春鳥会を創設、明治38年(1905年)に美術雑誌『みづゑ』を発行したのです。この雑誌がとても好評でかつ世間に受け入れられたことをきっかけに、美術出版社を立ち上げ本格的に出版事業に乗り出すようになったのです。そして祖父の代では美術書専門の出版社としての地位を確立し、父の代では国際的な出版活動を推し進め、世界各国の美術出版社との提携による『世界の巨匠シリーズ』などの発行によって、美術専門出版社としての地位を確固たるものにしていきました。そして、1999年父から私の代へとバトンが渡されたのです。
企業が誕生して10年持ちこたえるのも厳しい状況があるなかで、1世紀以上も永続しているというのは本当に素晴らしいことですね。曽祖父様が思いを込めて立ち上げられた会社を受け継いでいくことは、大下社長のなかではごく自然な流れとして受け止めていたのですか?
そうですね。社長になりたいと強く感じていたわけではありませんが、なりたくなかったわけでもないという感覚でした。小さい頃から会社が身近な存在ではありましたから、いつかは自分が継ぐのだろうなと漠然と思っていました。 でも私は、創業者のように絵を描くことが得意なわけではなく、画家でもありません。一応美術大学を卒業しているわけですが、美術史を専攻していたので、描くことは大学ではあまり勉強しておりません。しかも、美術大学にはあまり通わず、慶応義塾大学のマーケティング分野で有名なゼミに特別に入れていただいて、そこで徹底的にマーケティングの基礎を学ばせていただきました。きっと正規の慶大生より学校に通っていたと思います。
そして、卒業後はアメリカに?
ええ、ある意味修行に出たとでも言うのでしょうか。ニューヨーク市にあるアベビルプレス社という出版社で2年間ほど働かせていただきました。私が渡米した当時日本はバブル絶頂期で、アベビルプレス社の顧客に日本の出版社も多く、国際共同出版の版権売買において日本企業とのビジネスもかなり順調に行っていました。
一方でアメリカは不景気の真っ只中で、社会全体がモヤモヤした、晴れない気持ちが蔓延していました。そういう鬱憤をアートで爆発させたいという人が増えるのでしょうか、公的なアート支援も充実する傾向になり、ニューヨークは私にとって刺激的要素が沢山詰まった土地でした。
まだまだアメリカで色々挑戦したいという気持ちはあったものの、日本に帰国し美術出版社に入社しました。入社後は『美術手帖』編集部の編集スタッフからスタートし、広告営業、営業責任者、そして新雑誌の立ち上げと一連の仕事を経験させてもらいました。
日本に帰国された頃の出版業界の様子や御社の状況はいかがでしたか?
バブル崩壊直後に戻ってきましたから、日本経済はもうガタガタ。加えて、美術出版社も非常に厳しい状況に立たされていました。"美術系"の出版社だからでしょうか、仕事=アカデミニズムの追求という側面が強く、儲けや利益をあまり意識していないという印象を受けました。
特に私の父(現会長)が現役だった1970年代頃は、組合組織の勢力が非常に強く、その中でも出版業界ではかなり戦いも激しかったといいます。賃金交渉の場でも「書籍の販売数が伸びれば給与を上げることができる。しかし、現状売れないからこれ以上は出せない」と話をすると「美術の本を売っているのに儲かるとか、儲からないとかいうのは何事だ!」という展開になったといいます。 今でもよく憶えているのですが、私が小学生の頃のこと、当時の社屋は通学路から見える距離にありまして、会社の窓にはいつも『賃上闘争』とか書かれた紙が窓に張られてありました。子供ながらに「この状態は普通の状況じゃないなあ・・・」と思うわけですよね(笑)。
私が美術出版で働き始めた頃には、もうそんな雰囲気はありませんでしたが、ただ「美術本で儲ける仕組みを考える」という志向にはなっていなかったと思います。
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