株式会社マングローブ
 
語る
株式会社ケイフローリスト
代表取締役
栗原浩之氏

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  経営者略歴
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  鬼才異彩バックナンバー

 経営者に学ぶ

 (1)『人真似ではないことを実行する』
               
 (2)『若い世代の人たちに自分の考えて
    いることを伝えていきたい』

 (3)『物より"heart"を届ける』
                      
          
 マングローブの事業概要5+1
鬼才異彩

株式会社ケイフローリスト
所 在 地:東京都港区南青山1-3-1-1105
事業内容:・生花・観葉植物の販売、リース
       ・オリジナルギフト販売
       ・パーティ・ウエディングプロデュース
U R L:http://www.kflorist.co.jp/
 
今回の鬼才異彩は、株式会社ケイフローリスト 代表取締役 栗原浩之氏のインタビューをお届けいたします。同社は、ブライダル関連のフワラービジネスを積極的に展開する一方で、花とワインをセット販売する企画や花を活用したイベント企画など、今までにない新しい取り組みをされています。前編では、栗原社長の意外とも言えるご経歴についてお話いただきました。


これまで栗原社長のご経歴を詳しく存じませんでしたが、海上自衛隊
少年術科学校(以下:学校)をご卒業なのですね。ご経歴と現在手掛けておられるフラワービジネスとのギャップに少々驚きましたが。


ケイフローリストは私の父が創業した会社で、私は2代目になります。長男なので家業を継ぐのが当たり前だと自分では思っていたのですが、中学を卒業してすぐに、花や経営とは全く関係のない学校に入学することになりまして(笑)。

それというのも、軍国主義時代に多感な時期を過ごした昭和一桁生まれ父の影響が強かったからでしょう。
父は戦争をテーマにした書籍や昭和史などを好んで読み、よく盗み読みをしていた私も感化され、ごく自然に
ミリタリックなものへの憧れを抱くようになり、そんな時期に"少年自衛官"という存在を知りました。

では、自衛官になりたいという気持ちもあって、学校に入学されたわけですね。

そうなのです。多感な時期でもある4年間、精神面と体力面を学校生活と寮生活で徹底的に鍛えられました。言葉で表現するとすれば、『きつい』、『怖い』、『苦しい』の4年間。朝から晩まで訓練、訓練、訓練。

学校はそもそも専門職を育成するという目的で設立されていますから、入学直後から一般的な高等教育科目に加え、専門的な勉強も学びます。私が選択した専門科目は水測コースで、シミュレーターを活用して潜水艦を探知する訓練や厳冬訓練と言って真冬にシャツ1枚と裸足でボートを漕ぐような訓練などがありました。 特に厳冬訓練は辛かったですね。朝5時半頃から暗くて冷たい海にボートを浮かべ、ひたすら漕ぎ続けるというもので、長時間狭い空間に座るからお尻の皮が剥けて出血し、さらには手の血豆も破れるというボロボロな状態。
それでも漕ぎ続けなければならない。その他には、石段の続く標高400メートルくらいの山をダッシュで登るという訓練もありましたね。そんな環境でしたから、体力的にも精神的にも続かずに辞める人も多かったですよ。

それでも、栗原社長はよく辞めずに頑張りましたね。


もちろん辛すぎて辞めたいと思うこともありましたが、途中で辞めて地元に戻るのは非常に格好悪いだろうという気持ちの方が強かった。だから意地でも卒業してやろうと自分を奮い立たせていました。ただ、たまの休みに帰省すると、地元の同年代の仲間が異性と楽しそうに遊んでいる姿を見るととても羨ましくて(笑)。

おかげさまで無事に卒業することができましたが、卒業式当日は全員男泣き(笑)。厳しい訓練のなかでお互いを励まし合い、助け合ってその日を迎えるわけですから、達成感の気持ちが溢れ、感極まってしまうのでしょうね。

栗原社長にとって多大なる影響を与えた環境だったでしょうね。

おっしゃる通りで、現在の自分の土台が作られたと思っています。
「あれほど辛い4年間を自分はクリアできた」という達成感が自分の
強い自信にもなっていますから。経営をするなかで辛い出来事や壁にぶつかることもありますが、まだ若かった頃にあれだけのことを乗り越えることができたという自負が、現在の自分を支えているといっても過言ではないと思います。無事に卒業はしたのですが、その2ヵ月後に家業である花屋で働くことに決めていました。

そのまま自衛官になろうというのではなく、やはり実家に戻ろうと決断されたわけですね。社長であるお父様から何か言われたからということでしょうか?

いいえ、特に「戻ってこい」と言われたこともありません。さらに言うと「おまえを後継者にしたい」とさえ言われたことがただの一度もないのです(笑)。私が一方的に継ごうと思っていただけといいますか。

そう考えるようになったのには、やはり学校での生活が背景にあります。当時は電子メールも携帯電話もなく、通信手段は公衆電話か手紙しかありませんでした。学生が利用できる公衆電話は2機しかなく、実家に連絡をしようと限られた休み時間に列になっていると、先輩たちがドンドン割り込んできて自分の番が全然回ってこないという状況。そうなると、通信手段は必然的に手紙しかなくなるので、手紙のやりとりが始まるのです。 父も結構手紙を書いて送ってくれまして、「秋の婚礼シーズンだけど、今年は花の相場が高くて大変だ」とか「会社は今こんな状況で、○○で苦労している」という業界や会社のことにも触れていました。父から送られてくる文章を読むにつれて、「やはり自分は長男だし、これは会社を継がなきゃいけないんじゃないか・・・」と次第に気持ちが変化し始めていきました。最終的には「よし、卒業したら自衛隊に入るのではなく、家業を継ごう」と決意を固めました。

 
 
 
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