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今回の鬼才異彩は、株式会社トゥインクルスター 代表取締役 樋口真理氏のインタビューをお届けいたします。樋口氏が代表を務める『オリーブの丘』は、1989年に設立されたウエディングプロデュース界の草分け的存在。おもてなしのスペシャリストとしての18年間の実績を活かし、レストランウエディングのプロデュースのみならず、最近では新郎新婦向けのマナーレッスンや人間力アップに重点をおいたプランナー養成講座を開催しています。前編では、創業までのエピソードをご紹介いただきました。
今でこそレストランウエディングをはじめ、個性溢れるスタイルの結婚式が当たり前になりつつありますが、樋口社長がウエディングプロデュース業を始められた頃はホテルで式を挙げる方が多い時代だったかと思います。まずはウエディング事業との出会いからお聞きしてもよろしいでしょうか?
少し話が長くなりますが、お許しくださいね。初めて就職したのは外資系銀行でした。私が社会に出た当時、世間が見る“女性”と言えば就職後2、3年で寿退社をする存在というのが一般的。そんななか、私自身はせっかく仕事をするならやりがいのある仕事をしたいと思い外資系企業が良いのではないかと考えました。そして最終的には内定をいただいた銀行に入社しました。
一般職で入社をしたので1年目は事務業務を担当していましたが、入社2年目からは何故かディーラーに抜擢されてしまったのです。当時は外資系ディーラーと言えば、雑誌などでは花形の職業で高収入職業としても常に上位にランキングされるほどでした。しかも、女性ディーラーは東京でも10人もいなかったと思います。
樋口社長の英語力と交渉力が買われての抜擢だったということですね。
いいえ、とんでもない。度胸だけはありましたけど、留学経験もなく、英語力は全くない。だから「なぜこの私が?」と非常に不思議でした。ビジネス書類を書くことくらいは出来ましたが、話す、聞くなんてことは論外でした。そこは帰国子女も多く、英語は話せて当たり前でしたので、誰も私が「英語を話せない」とは考えていなかったようです。ディーラーという職種に就いたことで、私を取り巻く世界が大きく変わりました。何と言うのでしょうか、一人で外国に行かされた感覚というのでしょうか。部署内のミーティングもすべて英語で行われていました。
毎朝、各担当者から前日の海外マーケットの動向を報告するのですが、もちろん英語です。英語に自信のない私は、他のスタッフが来る1時間前には出社して発表内容を作文、丸暗記をして発表をしていましたが、実は他のスタッフが何を言っているのかはチンプンカンプンでした。
ランチタイムは会社近くの英会話レッスンに通ったりして、半年ほど経つ頃からようやく周囲の話す英語も聞き取れるようになり、私の会話も以前よりは上達してきたようで、直属の上司から「君の言っていることがやっとわかってきた」と言われるようになりました(笑)。
私のような人間がディーラーとして務まったのは、あの時代だったからこそといえると思います。外資系銀行とはいっても、まだ従業員数50名程度の規模で、社員全員が家族的な関係でしたから。
そして、もう一つ私にとって新しい世界となったのは、外資系企業ならではのパーティー文化でした。社内には外国籍の方も多かったので、週末には上司や同僚からホームパーティーに招待していただきました。会社主催のパーティーも年に数回開催され、プライベートからオフィシャルのものまでパーティーというものが1年中身近にありました。会社主催のクリスマスパーティーでは、女性は身支度のために早退するのが当たり前で、美容院で髪をセットしてロングドレスに着替え、男性は必ずタキシード姿で会場に登場する。そのような環境でしたので、世の中の男性は皆タキシードを1着は持っているものだと思っていたくらいです(笑)。
特異な環境で社会人生活をスタートされたことが、おもてなしやパーティーという現在の事業に結び付いたということなのでしょうか。銀行にはどれくらいの期間いらしたのですか?
外資系銀行は丸3年勤務しました。ディーラーの業務は自分にとっては刺激的でした。自分の動かす金額が1000万ドル単位だったり、1円の為替レートが瞬時に変わったりすることに一喜一憂する日々。一方で、体力的には厳しく、第一線で10年間この仕事を続けられるだろうかと考えるようになりました。また競争社会でのプレッシャーに押し潰されそうになっていたこともあって、残念ながら体調を崩してしまいました。喘息が悪化し夜も眠れない状況にまでなり、それ以上働くことが難しいだろうということで一旦療養のために実家に戻ることにしました。
1日中寝たきりでの生活を送り、社会人になって初めてというほど、自分自身についてじっくり考える時間ができました。「もうこの先普通の生活は送れなくなるかもしれない。あんなに一生懸命働いていたのに、人生はいつ何が起こるか分からない。それなら、もっと自分のやりたいことをやった方がいいのではないか・・・」なんてことを考えていたら、1週間も経たないうちに病状が快復してしまって(笑)。きっとずっと張り詰めていた気持ちが開放されたことで、身体も楽になっていったのでしょうね。結局銀行を退職することに決め、前から声をかけていただいていた知人の経営する建築企画会社にお世話になることにしました。
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